喜んでもらいたいは自分のためという暴論
おはようございます。
誰かを喜ばせたい。笑顔にしたい。
そう思う時ってありますよね。
好きな人だったり、
大切な人だったり、
お世話になってる人だったり。
とってもステキなことです。
よくこんな言葉を聞きます。
『喜んでもらいたいは自分が喜びたいから。』
でも気をつけてください。
この言葉を鵜呑みにするには危険です。
なぜかというと、この言葉を読むと喜んでもらいたいと考えることは自己中心的で、自分勝手なのではないか?と感じてしまうからです。
本来、喜んでもらいたいという思いは崇高なものです。
一般説や常識的なものに落とし込まないでいただきたい。
では、喜んでもらいたいは本当に自分のためなのか?
考えてみました。
喜んでもらいたいためにやったのに、相手が喜んでくれなかった。
そんな時不満が出てしまいます。
そして、不満が出てしまうのは相手に期待しているからだ。という。
とんでもない。
せっかくしてあげたのに!
どうして!
という不満が出た場合は、
自己中心的な考えです。これは自分のために喜ばせたい。に当てはまる行為です。
でも、
喜んでもらえなかったな。
力不足だったな。
という不満もあるということを忘れてはいけません。この場合は自己中心的ではありません。
誰かを喜ばせたいという崇高な思いを
相手が喜ぶか喜ばないか、
見返りを求めるか求めないか、
不満がでるかでないか、
結果で判断するなんてナンセンスです。
どうでもいいんですよそんなものは。
誰かを喜ばせたいという行動や思いそのものが素晴らしいということが抜け落ちてる。
よって、
喜んでもらいたいは自分のためというのは暴論である。
以上